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thinking + sinking

とりとめのない思考、または試行のアーカイブ。

道化の起源|道化の民俗学①

山口昌男『道化の民俗学』岩波現代文庫)、第二章「アルレッキーノとヘルメス」より。同書は、著書がヨーロッパ滞在の折に足を運んだ即興劇「コンメーディア・デラルテ」に登場する道化=アルレッキーノの紹介を皮切りに、道化という概念について論じたもの。知識量が膨大で消化不良だが、面白かったところをまとめておく。

■ 道化の起源と地獄のイメージ

第二章では、まずアルレッキーノの起源について考察が巡らされる。その起源や変遷を明示した「成長記録」のようなものはないようだが、アルレッキーノはヨーロッパ中世の民俗文化の土壌から生まれたという。

その起源を考えるにあたって、著者は一般に用いられる三つの方法を挙げる。

  1. 古代ローマ喜劇との系譜的関係の考察
  2. アルレッキーノのさまざまな呼称に関する考察
  3. 民俗学的事例の考察等

個人的には、②の呼称に関するものが面白かった。アルレッキーノはイタリア、フランス、イギリスの各言語で「ハーレキン/ハーレクイン」「アルルカン」などとも呼ばれ、その呼称の起源には、「道化の跳躍が似ている」という鳥や、フランスに実在した人物エルヌカン公などの諸説があるらしい。また、ラテン語やゲルマン神話を介して「地獄の王」というニュアンスにも行き着くとか(ただし、いずれの説も決定的なものではない)。

説の真偽はさておき、アルレッキーノを地獄の王と見るのは、語源的なつながりからだけではない。11世紀イギリスのある僧院に残る記録が取り上げられているが、それはある年の元旦の夜にハーレキン(アルレッキーノ)が先導する幽鬼の一団に遭遇したという僧侶の証言で、大きな錫杖を持ったハーレキンをはじめ、それに続く棺桶や絞首台を運ぶ男たち、悪魔に責め苛まれる者、そして証言者の死んだ弟まで共にいたのを目にしたという。

■ カーニバルとの結びつき

この記録について、著者は次のように説明する。(同書39頁)

この描写を通して現れるものは、古代ローマのサトゥルナリア(農神祭)の行列であり、中世から近代ヨーロッパ農村に連綿として続いているカーニヴァルの山車である。……この幻覚はカーニヴァルの山車の記録に基づいていることは確かである。

さらに、ロシアの文学史ミハイル・バフチンの分析が取り上げられる。(同書39頁)

  • 大きな錫杖を持ったハーレキンはへーラクレースを想わせ、
  • 全体が豊饒祭のパターンである死と誕生を表現し、
  • 堕落したため罰せられる女たちの姿態の記述は性交=豊饒の象徴的行為である

バフチンによれば、一団の様子はカーニバルの基調が貫かれているともいう。(同書39-40頁)

  • 野獣の皮を被る、台所道具を携行する……のはカーニヴァル的仮装そのものであり、
  • 領主である騎士、僧侶、貴婦人への責められるのは、カーニヴァルの道化祭の位爵剥奪のパターン

行列全体を包む炎は、二重の意味を持ち、

  • 世界を破滅させると同時にさらに更新させる火である。ヨーロッパのカーニヴァルではほとんどいつも《地獄》と呼ばれる山車が出てくるが、最後にこの《地獄》が盛大に燃される

中世を経て形成されたアルレッキーノのイメージ、その悪霊的な畏怖感はヌミノーゼとも合致することなど、説明が続く。ひとまずアルレッキーノの表象について、著者によるまとめを引いておく。(同書42頁)

  1. あまねくヨーロッパ中世的形象であるらしいこと
  2. 地獄のイメージと結びついているらしいこと
  3. カーニヴァル仮装行列と深い関係を持つらしいこと

ヘルメスとウィルダネス

やはり日野と、そして、ウィルダネスについてまとめておく。
ヘルメス的住み方の醍醐味とは、移動した先のウィルダネスでの出会いなのだろう。
nattama.hatenablog.com

■ 既存の意味を剥ぐウィルダネス

英和辞典で「ウィルダネス(wilderness)」を引くと、「荒れ野、原野、原生自然」などの訳語が並ぶ。『境界の現象学』でも同様の意味で用いられており、同書で扱う概念としての説明は、第4章「食べられること、食べること」に詳しい。

この章の説明によると、ウィルダネスは野生動物が生息する場所であり、人間にとっては狩猟のために分け入る過酷な環境である。そして同書は、人間が社会の中で生きるのと異なるウィルダネスでの意識のあり方を、狩猟者の意識として浮かび上がらせていく。

興味深かったのは、ウィルダネスでは「私」という存在の替えがきかないという点だ。

「他の誰かではなく自分が」とか、「なぜこの私が」とかいった発想は、自分の代わりを誰かができることを意味している。それは、自分の代役が存在する社会の中で生まれる発想である。人間の大集団が存在しないウィルダネスでは、代役はいない。同じ役割はない。[同書94頁]

過酷なウィルダネスで、狩猟者は常に死の危険と隣り合わせになる。著者いわく、ウィルダネスでは「生と死は回転扉のように一体化している」。そうした中で、獲物の肉を食う狩猟者は、いつかは自分が食われる立場に立つことを了解するとともに、自分をひとつの命として鋭く自覚する。そこでは、狩猟者も獲物も「ただ存在しているだけ」で、「意味はないに等し」い。存在に一切の意味を付与しない、解釈しない志向性こそ、ウィルダネスでの狩猟者の意識なのだという。

■ 都市に存在するウィルダネス

原生的自然=ウィルダネスの中で、人間は社会で住まい身に付いた意味を剥がれる。だが、人間の大集団が生きる都市にもまた、ウィルダネスが存在するのだという。それを描いているのが、同書の第6章「都市とウィルダネス、天井も壁もない家」で取り上げられている日野啓三の作品だ。

日野 啓三(ひの けいぞう、1929年6月14日 - 2002年10月14日)は、日本の小説家。ベトナム戦争を題材にした作品や、現代都市における幻想を描く都市小説といわれる作品などで知られる。

日野啓三 - Wikipedia

同書によれば、日野は『あの夕陽』で芥川賞を受賞、『抱擁』『夢の島』『砂丘が動くように』という八十年代の都市をテーマにした作品で注目された作家だそうだ。残念ながら読んだことないっす。なお、その作品を特徴付けるのはデペイズマンという手法だという。以下、その説明。

デペイズマンとは、もともと「異郷の地に送ること」を意味していたが、物や人を本来とは異なる場所や時間、関連性の中において、予想外の意表を突く印象を与えることをいう。日野は、日常的で当たり前の小さな東京の風景を、これまで訪れたことがないような異境の場所や宇宙の彼方の光景であるかのように描き出す。[同書122-123頁]

日野によって、ヘスティア的な社会の中心に見える都市がウィルダネスとして描かれる。ここで、都市と都会は二つの対立した概念として扱われているという。人間同士の情緒的な交流がある「都会」に対して、「都市」は「休日のオフィス街のような場所」であり、人の姿はまれかあるいは、建物内に閉じこもっている。「きびしく非人間的で、鉱物的で、無機的」である。

確かに雰囲気ウィルダネスっぽいが、それでもなぜ「都市」にウィルダネスが見出されるのか。
それはまず、都市が「人間が通過していくだけのヘルメス的な場所」であること。建物の建て替えや人の移動など都市は常に変化する、そして日野の描いた東京のオフィス街は特にそれが激しく人が定住できる場所ではない。このことに加えて、日野が強調する「都市そのものが人間から独立している」こと。「都市は、経済状況に応じて拡張縮小し」、その成長と死は「個々の人間の目的や意図から独立している」。その結果、習慣による慣れや蓄積された文化、すなわち、人間化された環境での意味の充溢が希薄なままとなる。

■ ウィルダネスで抱く解放感

さらに同書では、日野が都市にある廃墟、大量のゴミの山に、「人間的な意味から解放されて『宇宙にまで開かれた気分』を感じる」として、ウィルダネスで出会う無意味なもの、絶対的なものに関して説明が続く。

あらゆる意味を失ったゴミが、広大な砂漠と岩だらけの山脈と宇宙の果ての光景と重なって見えるのは、それらが、人間からの意味づけを退け、人間の目的に奉仕させられず、人間の意図のもとに制御できず、飼い慣らすことができ……ないからである。もともと人間の目的と意図をもとに作られた人工物は、うち捨てられることによって、それまでの文脈や関連が剥離し、かえって物の存在の本来の無意味さをはっきりと表現するようになる。[同書138頁]

第6章の最後、日野について、ディープ・エコロジーとの関連が語られる。ディープ・エコロジーとは、「自然の価値は、人間的価値や意味づけから独立であり、それ自体の固有の価値を持っている」とする考え方。そして、無意味な存在や有用でない存在に価値を認めることが、その思想の理解に関わるという。日野が都市の中心で発見したものは、ディープ・エコロジストがウィルダネスに認めるものと同じであり、「自己に対しても、環境に対しても、徹底的に意味を剥奪することが、原初の存在との出会いを復活させる」。

けれども、今やゴミは廃棄後リサイクルが求められる時代である。とすれば、意味を剥がれた解放感も束の間、ゴミはまた有用な資源として再び意味化されヘスティア的な社会に投げ込まれるのだろうか、などと思ってみたり。とすれば、無意味なものが無意味なものとして存在することが許されない、今の社会が日野の時以上に、窮屈さ余裕の無さを感じさせるものになっているとしても、さもありなん?

ヘルメス的住み方

ヘルメスをアイコンとした論考が興味深かったのでまとめておく。
『境界の現象学』河野哲也著、筑摩選書)より。なお、同書は様々なものを内と外に区分する境界に着目、それを越える経験や現象から、流体の存在論について考察している。

■ ヘルメスとヘスティア

同書の第6章「都市とウィルダネス、天井も壁もない家」で、人間の住み方に関するエドワード・ケイシーの主張が紹介されている。それがヘスティア的住み方とヘルメス的住み方であり、これらは住み方の根本的な様態だという。

ヘルメスがギリシア神話に登場するオリュンポス十二神の一人であることは先に見たが、ヘスティアもまた同じくオリュンポス十二神に名を連ねる神の一人である。なお、神話関連のヘルメスについてはこっち。
nattama.hatenablog.com

さて、先にヘスティア的住み方について見ておくと、ヘスティアが「かまどの女神」であることから、それが象徴するのは家と家族的生活の中心である炉端であることが述べられている。さらに、家庭の延長上には国家があり、ヘスティアは国家統合の守護神でもある。そのため、古代ギリシアの家々や町の公会堂にはヘスティアを祀る祭壇が備えられていたとか。

その住み方は「佇み留まり宿ること」。「中心に家を持ち求心的で自己閉鎖的。中心から周辺へと向かう運動、内部の秩序の外部へと拡張する運動という方向性を持つ」という。さらに、かまどと同じく、上方へと開く垂直的方向性を持っているとか。天と地、精神性と身体性の二極化、閉鎖性と垂直性、階層性……云々。この垂直的方向性の辺りは、『塔の思想』に通じる気がする。

そして、ヘルメス的住み方。これは当然、ヘスティアと対極である。「外に出る住み方、境界の外へと移動する経験に結びつ」くものであり、この辺りが同書の主題でもある。住み方の様態としては放浪。移住しながら一箇所にとどまらない。多様さを持ち、「中心を持たず、あらゆる場所が周辺的である」。さらに、ケイシーからの引用があるが、面白いので孫引きー。

ヘルメスが現れるところでは、同心円的=共ー中心的(con-centric)なものは、離心的=常軌を外れた(ec-centric)ものへと変わる

ヘスティアは既存の意味に安寧を得る

さらに、ヘスティア的とヘルメス的の対比は、時間性と空間性の配分の違いとしても説明される。

ヘスティア的住み方では、変化や成長は時間と結びつく。つまり、蓄積され、その蓄積が意味あるものとなる。そして、積み重ねられた経験や知識は空間性を切り離し、時間と歴史に結びつく。さらに、これに精神まで付け加わって同一視される。だからこそ、国家は歴史を好むわけだ。

この辺りの歴史や国家に絡む話が第7章「家のないこと」にも述べられていたので、加えて書いておく。

ヘスティア的住み方は、集団のなかに住まうことで自己を意味づけし、その場で「仕事」をして、自分よりも命を長らえる何かの一部に溶け込もうとする。自分の寿命を超えて、長らえる国家と共同体に身を任せて、不死になろうとする。私たちは何かの一部として自分を意味づけることによって、個体としての死を忘却しようとする。

これは多分、まんま想像の共同体。「自己を意味づけ」とあったが、意味あるものとは、「関連性のもとに置かれ」「文脈の中に位置づけられること」。そして、すでにある意味の中で生活し、その関連の中に自己を埋め込むことで、ヘスティア的住み方では人生に意味が与えられる。

■ ヘルメスは無意味性から新奇へと至る

これに対して、ヘルメス的住み方では、経験と知識は局所的なものとされる。移り住んだ先で役立つかは分からないから、同じ場所で得られるアイデンティティ、歴史や文化は重んじられない。そのため、ポータブル、転調・交換可能なものが貴重であり、重くて動かないものは死物、と。うーん、身軽な感じでいいなー。

そして、意味という点で言えば、ヘルメスは無意味性に結びつく。
人はしばしば円環性・回帰性に安心を覚えるが、実際のところ、この宇宙に厳密な意味での円環はなく、何一つとして回帰するものはない。したがって、帰郷などの円環性を表すものが良しとされるのは、定住中心の価値観だから。むしろもっと長いスパンで歴史を見れば、人間はよりよい場所を求めて移動する存在であり、円環に心の拠り所を求めることも本当は必要ない。

無意味とは、「周囲との関連性を失い孤立し」たもの。そのため、相対的な位置づけを持たない絶対的なものだという。むしろ、このように周囲から独立しているからこそ、移動することができる。移動によって、人は古い場所や文脈から切断され、新しい環境に触れて新しい存在となる。そして、その独立した存在であること、無意味性と無根拠性、絶対性は、ヘスティアが忘却しようとするところの、死すべき個体であることに拠って立っている。

結局、この二つの住み方はどちらが正しいというわけでなく、相補的だとしていた。それでも、ヘルメス的住み方として扱われていた内容は面白かった。

その他、目に留まったのは、そのタイトルが典型的にヘスティア的住み方の思想だという、ハイデガーの『存在と時間』。以前、入門の新書に手を出して、読みかけたまま放置してあるなー。そのうち、うまくつながってきたらまた読んでみるか。さらに今回読み返してみて、思いのほか興味深かったのは日野啓三のくだりだ。これも今度読んでみようかな。

ヘルメス

ヘルメス、またはヘルメース。
ギリシア神話に登場する青年神であり、ローマ神話ではメルクリウスといわれる。

オリュンポス十二神の一人。神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、旅人、商人などの守護神である[1]。能弁、境界、体育技能、発明、策略、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。

ヘルメース - Wikipedia

wikiにはさらにいろいろ書かれているけれど、おさえておきたい特徴は以下。

nattama.hatenablog.com
トリックスターということで、さらにギリシア神話関連の書籍を読んでみた。
以下は、新潮文庫『ギリシア神話・上』からのまとめ。

■ ずる賢い悪童ならぬ悪赤ん坊

ヘルメスは、生まれて間もない赤ん坊ながら、早速、異母兄アポロンの牛を50頭ほど盗みに行く。その肉を食べ、さらに牛の腸を弦として竪琴まで作る。アポロンに見つかり、問い詰められるも犯行を図太く否認。アポロンアポロンで、ヘルメスのかき鳴らす竪琴が欲しくなり、牛はいいからと言い出す始末。後日、ヘルメスの吹く葦笛をまたもアポロンが欲しがり、牛追いの杖との交換を持ちかけるも、ヘルメスからは占術までねだられる。完全になめられてるよね、アポロン……。ちなみに、この杖が人を自由に眠らせるヘルメスの黄金杖だそうだ。

なお、ヘルメス像の原初形態は、路傍や畑の境などに立てられた陽物を持つ像だとか。いわく、「ごく低い農民層や牧者の間から、豊饒や家畜の多産を祝う神霊として起った」ものらしく、多く路傍に立っていたことから、伝令使、道案内者としての性格を発展させたという。その関連かは定かでないが、ヘルメスは知的職業に携わる役どころながら、親しみやすい庶民的性格を持つ。

同書以外にもギリシア神話の本をあさってみたけれど、ヘルメスがメインの話はあんまりない。メドゥサ殺しのペルセウスに助力したり、とかはあったけど、やっぱり端役。まあ、メッセンジャー、使いっぱだからね、多分。その中でも活躍するのがアルゴス殺しの話。まあ、それでもゼウスの使いっぱだけど。

アルゴス殺し

アルゴスは怪力の巨人にして、全身に眼を持つ「百眼の怪物」。その姿から、すべてを見るもの=パノプテースの異名を持つ。パノプテースってあれだよね、フーコーが注目したパノプティコンに似てるけれど、語源はここから来てるのかな? そうすると、すべてを見るもの=神または王を打倒するというのが、ヘルメスの立ち位置?

王を出し抜く愚者という連想はさておき、ヘルメスがなんでアルゴスを殺すことになったかというと、発端はゼウスの浮気と妻ヘラの嫉妬。このとき、ゼウスがイオという娘に入れ込んでいたのだけれど、それを知って怒ったヘラがイオを牝牛に変えて、さらにアルゴスに監視させる。それで、イオを連れ出したいゼウスがヘルメスに何とかしろと命令、ヘルメスの登場となる。

でも、ここのくだり、オウィディウス『変身物語・上』では違った。ヘラがゼウスに嫉妬してというのは同じだけれど、イオを牝牛に変えたのはゼウスで、ヘラから隠すため。そんでそれを見抜いたヘラが「この牛をわたしにください」と要求する。ゼウスにとっては、拒めば疑惑を招き、応えれば愛人を引き渡すことに。すごいねこれ、まさに詰めの一手。逃げ場を失い、ゼウスは牝牛に変えたイオを引き渡す。それでも心配なヘラはアルゴスに見張りを命じる。イオはというと、姿は牛でも意識はそのままで、牛として飲み食いすることに苦悶する。そして、そんなイオを見かねたゼウスがヘルメスに命令を下す、という流れ。

『変身物語』所収の方が物語として完成度が高くて面白い。これに限らず、神話はいくつかバージョンがある。アルゴス殺しに関しては、ブルフィンチも『変身物語』と同じ筋だった。いずれにしても、ヘルメスは使いっぱなんだけれど。

その後のアルゴスを殺害するところはどれも同じ。杖の力を持ってしてもなかなか眠らないアルゴスに、杖の由来などをおしゃべりしながら、ようやく百の眼が閉じたところで、持っていた鎌で首をずぶり。まだ少し話は続くけれど、ヘルメスの出番はここまで。

■ その他

ヘルメスは旅人を守護する神だが、人間を黄泉に導く死出の旅路の先導者、亡魂の案内者でもあるそうだ。そのほか、牧神パーン、牧童ダプニスの父といわれるが、由来ははっきりしない。

道化まとめ|影の現象学②

河合隼雄『影の現象学』より、「影の逆説」まとめのつづき。
nattama.hatenablog.com

トリックスター

道化的存在として、各地の神話・伝説に登場するトリックスターが取り上げられている。とりわけ紙幅を割いているのは、ウィネバゴ・インディアンの酋長の掟破りの振る舞いや、日本の吉四六さんの話など。トリックスターは変幻自在で、自在性、両義性を特徴とする。また、先のまとめでも触れたように、中心と周辺をつなぐ役割を果たす。このとき、王が利用されるというのも典型的な主題らしい。

また、トリックスターは「隣人の悪」について知ることが多い。こうした偶然の出来事について、同書では「共時性」として説明している。

共時性(synchronicity)とはユングが因果性に対して、自然現象や心の現象の間に意味のある偶然の一致が生じることに注目し、それを説明するために提唱した概念である。

共時性と因果性、こうした時の概念は興味深い。そういえば、山口昌男氏の道化についての本を探していたら、たまたま同じ岩波現代文庫で、『時間の比較社会学』というのがあった。今度読んでみたい。ともあれ、トリックスター共時性と親和的だということだ。

トリックスターはあまりにも無意識に近い生き方をしているので、無意識のアレンジメントとしての共時的現象に巻き込まれることが多い

こうしたトリックスターの自由な動きを可能にする場として、中世カーニバルの祝祭空間が挙げられる。ここで上記の山口昌男氏の分析が紹介されている。氏の著書『道化の民俗学』を探しているのだけれど、なかなか手に取れるところにない。うーん、アマゾンで買うしかないか……。

中世の市場=開かれた世界であり、そこでは人々の自由な接触が可能となり、誰もが対等で、人や物が常に移動する流動性が存在したのだという。こうした祝祭空間の特性が現代のセラピールームと似ていると著者の話は続くわけだが、注目したいのは、この「開かれた世界」「自由」「対等」「流動性」という一連の語句である。

この辺りの話は、伽藍を出てバザールを目指せと説いた『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』の貨幣空間とか、『境界の現象学』につながるような。特に、定住ではない「流体」の存在論を詳述した後者については、ヘルメス=メルクリウスのことも出ていたし、また後ほど読み返した方がいいかも。

■ ストレンジャー

そして、ようやく最後、ストレンジャー。これは字義通り、見知らぬ人であり、日常の中に非日常性をもたらすものの一つだという。物語の冒頭でよくあるよね、「ある村に、あるいはある町に『見知らぬ人』が登場する」というシーン。

彼はそこに出現したというだけで、その場の日常性を破壊する。彼はその世界の人々になんらかの意味で変な感じ(ストレンジネス)を感じさせずにはおかない。

何か言い方ひどっ。要は、空気読めねえなこいつ、というか、空気壊してるよ、という感じ? まあでも、無条件に受けれ入れてくれる場所など、この世のどこにも存在しない。

ストレンジャーの説明では、マーク・トゥエイン『不思議な少年』が取り上げられる。サタン君が出てくるやつね。積ん読本の一つだな……。この辺り、深追いするなら読んでみても……、また検討するとして、ストレンジャーについてはこの辺で切り上げ。

その他、影の破壊力を示す例として、強制収容所の体験を書いたヴィーゼルの『夜』が紹介されていた。フランクルと併せて読んでみたいところではある。

道化まとめ|影の現象学①

『影の現象学』に道化を取り上げた「影の逆説」という項があったので、まとめておく。

なお、『影の現象学』講談社学術文庫)は河合隼雄氏の著作ユングの影概念を下敷きに、「もう一人の私」としての影について、その表れや向き合い方について書かれている。

■ 王と道化

道化について説明するにあたって、まず王との対比が示され、道化については次のように述べられている。

道化はいわば影の王としての意味を強くもっている。

王は完全な存在でなければならない。
しかし、現実の、人間としての王はいずれ死を迎える存在であり、完全ではない。したがって、王の完全性を補完し、王の影を引き受ける存在が必要となるが、それが道化である。このため、道化は場合によっては、王の身代わりとしてスケープゴートにされるという側面も持つ。

また、道化は「愚か者」であるために、王国として区切られた内と外を行き来することを許された存在でもある。ここで言う王国の外とは、隣国・周辺を指し、極端に言えば王に従わない悪である。道化は二つの世界に通じ、王の座す中心と周辺をつなぐ存在である。

王に従わないものを排除して区切られた領域が王国だとすれば、その安定性はそれと矛盾するものを切り離すことで保たれることになる。しかし、その無視された矛盾=真実が王国を脅かす力を孕むこともある。道化は、この真実を語ることを許された存在であり、道化の着る「斑の着物」は、「自由に真実を語る身を守ってくれる唯一の制服」なのだという。

真実を語るということは、言論の自由のない時代、独裁的な権力の統治下という状況を考えれば、そういうことなのか。……うーん、思いのほか長くなってきた……。

この後、「愚者の祭り」に関する記述に続く。
愚者の祭りは、日常の地位を転倒し、影の世界の演出によって宇宙の全体性を回復しようとする死と再生の秘儀だという。そして、ヨーロッパではこの祭典が消失した後、愚者は演劇界における道化として再生し活躍する。

■ 道化と女性

道化は女性と結婚しない。自己充足的で対極を必要としないから、だという。
ここでは、キリストもまた道化であるとの見方が示されている。イエス・キリストは当時のユダヤ社会の慣習を打破し、旅芸人のごとく行脚した挙句、最期は茨の冠を被せられ嘲笑の的になる。そして、イエスの死後、キリスト教が制度として確立しキリストが王になると、王は規制に忙しく救済を忘れてしまう。「上に君臨しても、下から人を支えはしない」。

道化から王に、そして結果として先王と同じように民衆を苦しめる、というのは英雄譚によくあるね。なかなかいい皮肉。キリストは道化。結婚もしてないしね。

■ 道化と悪

ここでは、シェイクスピア劇の道化を分析した中橋一夫による道化の分類が紹介される。
道化は次の三つに分けられるという。

  • 愚鈍なる道化(dry fool)
  • 悪賢き道化(sly fool)
  • 辛辣なる道化(bitter fool)

「辛辣なる道化」までくると、もう道化の笑いは笑えないレベルらしい。
なお、中橋一夫の著書『道化の宿命』は絶版。

この後さらに、「トリックスター」「ストレンジャー」へと論は続く。ここらで中座。
nattama.hatenablog.com

トリックスター|元型論

図書館でユングの『元型論』を走り読みした。

『元型論』とは心理学者カール・グスタフユングによって1921年に発表された心理学の著作である。

元型論 - Wikipedia

なお、読んだのは「トリックスター元型」の項と訳者によるその解説部分のみ。
以下、覚え書き。

  • ウィネバゴ・インディアンについて分析した民俗学者の論文に対するユングのコメント
  • トリックスターの例として冒頭部に挙げられていたのは、錬金術におけるメルクリウス
  • トリックスターは人間意識の動物的な部分、未発達な段階に該当する
  • 秩序の破壊者、文化的な約束を破る者である
  • 愚行や破壊の後に、意味あるものを生む文化英雄となるケースも(プロメテウスなど)

ユングによれば、トリックスターは露骨な性欲とも結びつく動物的・未発達な部分であるため、後に意識の次元からは除かれていく。しかし、それは失われたのではなく、無意識へと移行しただけで、意識に問題が生じるようになると現れ得るのだという。
したがって、それは意識に抑圧された「影」であり、集合的な影の像がトリックスター元型である。また、中世ヨーロッパで盛んだった「愚者の祭り」についても述べられ、そこでは、子供など、ふだん社会の二次的な立場にある「影」が主役となった。

影とか愚者の祭りって、以前読んだ『影の現象学』にあったよね、確か。

あと、こんな記述もあったので一応メモ。佯狂者につながる?

ネットで見たところ、元型論やトリックスターについては以下のサイトが詳しそう。
泉獺の水辺の棲家「元型論概説」
Keyword Project+Psychology:心理学事典のブログ「トリックスターとユング心理学の元型」