thinking + sinking

とりとめのない思考、または試行のアーカイブ。

道化まとめ|影の現象学①

『影の現象学』に道化を取り上げた「影の逆説」という項があったので、まとめておく。

なお、『影の現象学』講談社学術文庫)は河合隼雄氏の著作ユングの影概念を下敷きに、「もう一人の私」としての影について、その表れや向き合い方について書かれている。

■ 王と道化

道化について説明するにあたって、まず王との対比が示され、道化については次のように述べられている。

道化はいわば影の王としての意味を強くもっている。

王は完全な存在でなければならない。
しかし、現実の、人間としての王はいずれ死を迎える存在であり、完全ではない。したがって、王の完全性を補完し、王の影を引き受ける存在が必要となるが、それが道化である。このため、道化は場合によっては、王の身代わりとしてスケープゴートにされるという側面も持つ。

また、道化は「愚か者」であるために、王国として区切られた内と外を行き来することを許された存在でもある。ここで言う王国の外とは、隣国・周辺を指し、極端に言えば王に従わない悪である。道化は二つの世界に通じ、王の座す中心と周辺をつなぐ存在である。

王に従わないものを排除して区切られた領域が王国だとすれば、その安定性はそれと矛盾するものを切り離すことで保たれることになる。しかし、その無視された矛盾=真実が王国を脅かす力を孕むこともある。道化は、この真実を語ることを許された存在であり、道化の着る「斑の着物」は、「自由に真実を語る身を守ってくれる唯一の制服」なのだという。

真実を語るということは、言論の自由のない時代、独裁的な権力の統治下という状況を考えれば、そういうことなのか。……うーん、思いのほか長くなってきた……。

この後、「愚者の祭り」に関する記述に続く。
愚者の祭りは、日常の地位を転倒し、影の世界の演出によって宇宙の全体性を回復しようとする死と再生の秘儀だという。そして、ヨーロッパではこの祭典が消失した後、愚者は演劇界における道化として再生し活躍する。

■ 道化と女性

道化は女性と結婚しない。自己充足的で対極を必要としないから、だという。
ここでは、キリストもまた道化であるとの見方が示されている。イエス・キリストは当時のユダヤ社会の慣習を打破し、旅芸人のごとく行脚した挙句、最期は茨の冠を被せられ嘲笑の的になる。そして、イエスの死後、キリスト教が制度として確立しキリストが王になると、王は規制に忙しく救済を忘れてしまう。「上に君臨しても、下から人を支えはしない」。

道化から王に、そして結果として先王と同じように民衆を苦しめる、というのは英雄譚によくあるね。なかなかいい皮肉。キリストは道化。結婚もしてないしね。

■ 道化と悪

ここでは、シェイクスピア劇の道化を分析した中橋一夫による道化の分類が紹介される。
道化は次の三つに分けられるという。

  • 愚鈍なる道化(dry fool)
  • 悪賢き道化(sly fool)
  • 辛辣なる道化(bitter fool)

「辛辣なる道化」までくると、もう道化の笑いは笑えないレベルらしい。
なお、中橋一夫の著書『道化の宿命』は絶版。

この後さらに、「トリックスター」「ストレンジャー」へと論は続く。ここらで中座。
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