thinking + sinking

とりとめのない思考、または試行のアーカイブ。

ヘルメスとウィルダネス

やはり日野と、そして、ウィルダネスについてまとめておく。
ヘルメス的住み方の醍醐味とは、移動した先のウィルダネスでの出会いなのだろう。
nattama.hatenablog.com

■ 既存の意味を剥ぐウィルダネス

英和辞典で「ウィルダネス(wilderness)」を引くと、「荒れ野、原野、原生自然」などの訳語が並ぶ。『境界の現象学』でも同様の意味で用いられており、同書で扱う概念としての説明は、第4章「食べられること、食べること」に詳しい。

この章の説明によると、ウィルダネスは野生動物が生息する場所であり、人間にとっては狩猟のために分け入る過酷な環境である。そして同書は、人間が社会の中で生きるのと異なるウィルダネスでの意識のあり方を、狩猟者の意識として浮かび上がらせていく。

興味深かったのは、ウィルダネスでは「私」という存在の替えがきかないという点だ。

「他の誰かではなく自分が」とか、「なぜこの私が」とかいった発想は、自分の代わりを誰かができることを意味している。それは、自分の代役が存在する社会の中で生まれる発想である。人間の大集団が存在しないウィルダネスでは、代役はいない。同じ役割はない。[同書94頁]

過酷なウィルダネスで、狩猟者は常に死の危険と隣り合わせになる。著者いわく、ウィルダネスでは「生と死は回転扉のように一体化している」。そうした中で、獲物の肉を食う狩猟者は、いつかは自分が食われる立場に立つことを了解するとともに、自分をひとつの命として鋭く自覚する。そこでは、狩猟者も獲物も「ただ存在しているだけ」で、「意味はないに等し」い。存在に一切の意味を付与しない、解釈しない志向性こそ、ウィルダネスでの狩猟者の意識なのだという。

■ 都市に存在するウィルダネス

原生的自然=ウィルダネスの中で、人間は社会で住まい身に付いた意味を剥がれる。だが、人間の大集団が生きる都市にもまた、ウィルダネスが存在するのだという。それを描いているのが、同書の第6章「都市とウィルダネス、天井も壁もない家」で取り上げられている日野啓三の作品だ。

日野 啓三(ひの けいぞう、1929年6月14日 - 2002年10月14日)は、日本の小説家。ベトナム戦争を題材にした作品や、現代都市における幻想を描く都市小説といわれる作品などで知られる。

日野啓三 - Wikipedia

同書によれば、日野は『あの夕陽』で芥川賞を受賞、『抱擁』『夢の島』『砂丘が動くように』という八十年代の都市をテーマにした作品で注目された作家だそうだ。残念ながら読んだことないっす。なお、その作品を特徴付けるのはデペイズマンという手法だという。以下、その説明。

デペイズマンとは、もともと「異郷の地に送ること」を意味していたが、物や人を本来とは異なる場所や時間、関連性の中において、予想外の意表を突く印象を与えることをいう。日野は、日常的で当たり前の小さな東京の風景を、これまで訪れたことがないような異境の場所や宇宙の彼方の光景であるかのように描き出す。[同書122-123頁]

日野によって、ヘスティア的な社会の中心に見える都市がウィルダネスとして描かれる。ここで、都市と都会は二つの対立した概念として扱われているという。人間同士の情緒的な交流がある「都会」に対して、「都市」は「休日のオフィス街のような場所」であり、人の姿はまれかあるいは、建物内に閉じこもっている。「きびしく非人間的で、鉱物的で、無機的」である。

確かに雰囲気ウィルダネスっぽいが、それでもなぜ「都市」にウィルダネスが見出されるのか。
それはまず、都市が「人間が通過していくだけのヘルメス的な場所」であること。建物の建て替えや人の移動など都市は常に変化する、そして日野の描いた東京のオフィス街は特にそれが激しく人が定住できる場所ではない。このことに加えて、日野が強調する「都市そのものが人間から独立している」こと。「都市は、経済状況に応じて拡張縮小し」、その成長と死は「個々の人間の目的や意図から独立している」。その結果、習慣による慣れや蓄積された文化、すなわち、人間化された環境での意味の充溢が希薄なままとなる。

■ ウィルダネスで抱く解放感

さらに同書では、日野が都市にある廃墟、大量のゴミの山に、「人間的な意味から解放されて『宇宙にまで開かれた気分』を感じる」として、ウィルダネスで出会う無意味なもの、絶対的なものに関して説明が続く。

あらゆる意味を失ったゴミが、広大な砂漠と岩だらけの山脈と宇宙の果ての光景と重なって見えるのは、それらが、人間からの意味づけを退け、人間の目的に奉仕させられず、人間の意図のもとに制御できず、飼い慣らすことができ……ないからである。もともと人間の目的と意図をもとに作られた人工物は、うち捨てられることによって、それまでの文脈や関連が剥離し、かえって物の存在の本来の無意味さをはっきりと表現するようになる。[同書138頁]

第6章の最後、日野について、ディープ・エコロジーとの関連が語られる。ディープ・エコロジーとは、「自然の価値は、人間的価値や意味づけから独立であり、それ自体の固有の価値を持っている」とする考え方。そして、無意味な存在や有用でない存在に価値を認めることが、その思想の理解に関わるという。日野が都市の中心で発見したものは、ディープ・エコロジストがウィルダネスに認めるものと同じであり、「自己に対しても、環境に対しても、徹底的に意味を剥奪することが、原初の存在との出会いを復活させる」。

けれども、今やゴミは廃棄後リサイクルが求められる時代である。とすれば、意味を剥がれた解放感も束の間、ゴミはまた有用な資源として再び意味化されヘスティア的な社会に投げ込まれるのだろうか、などと思ってみたり。とすれば、無意味なものが無意味なものとして存在することが許されない、今の社会が日野の時以上に、窮屈さ余裕の無さを感じさせるものになっているとしても、さもありなん?